「こんな自分が、神仏を描いていいのだろうか」
ふとした瞬間に、そう立ち止まってしまうことがあります。 感情に振り回されたり、不用意な言葉で誰かを傷つけてしまったり。人として、まだまだ未熟だなと痛感する夜が、私にもよくあります。
けれど不思議なことに、そうした自分の不甲斐なさを感じるときほど、私は無性に筆を執りたくなるのです。
かっこ悪さごと、向き合う
私は神仏画を描いていますが、実際にはいつも「かっこ悪い自分」と戦っています。
何十年も描き続けてきたのに、いまだに理想の線が引けない悔しさ。
どこかで誰かの評価を気にしてしまう、小さな自分。 焦りや不安が、知らず知らずのうちに絵の表情ににじんでしまうこともあります。
でも、そんな弱さを隠すのではなく、すべて抱えたまま神仏という存在に向き合っていく。
一筆一筆、真摯に色を重ねていくこと。 その積み重ねだけが、私を唯一、純粋な場所へ連れて行ってくれるような気がしています。
描くことで、真摯さを取り戻す
描くことは、私にとって「浄化」というほど綺麗で安易なものではありません。
けれど、筆を握り、紙に向き合っている間だけは、画家としての最も真摯な姿に立ち返ることができます。
私は決して、立派な人間ではありません。
ましてや、聖なるものを語る資格があるわけでもない。
でも、だからこそ、描くのかもしれません。 足りない自分を、絵の中に投影し、高めていくために。
未熟なままで、筆を執る
人間的な弱さを抱えたまま、それでも、なにか尊いものに向かって手を伸ばし続けること。
それが、私の神仏画の根っこにある願いです。
神仏に手を合わせるとき、私たちは「完全な人間」である必要はありません。
むしろ、不完全だからこそ、人は祈るのではないでしょうか。
私は絵を描きながら、そのことを何度も教えられてきました。
だから今日も、私は未熟なままで筆を執ります。
震える手で、迷いながら、それでも真実を求めて。
それが、私にとっての「描くという祈り」なのだと信じています。


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